サッカーボールが、宙をまって少年の足もとに転がってきた。



少し肌寒い日、マフラーを巻きながらサッカーをしている少年たちを見ながら
アキラは自分もそこにいるような錯覚を覚えるのだった。

でもふと後ろを振り返ればりんごをむいている母親と目が合って、
やっぱり自分は病人なのだと自覚させられる。

「ほら、食べなさい。おいしそうでしょ」
「……いらない」
「ちゃんと食べないと、退院できないわよ。退院したらサッカー始めるんでしょ?」
そう言われ、アキラは仕方なくベッドに腰掛けた。

アキラと昔から仲のいい大和は地元のサッカークラブに所属しており、病院によくビデオカメラを持ってきては試合を見せてくれた。中学に入ったらサッカー部でレギュラーになりたいと語ってくれた。

サッカーなんかやったことのないアキラにとって自由に動き回れることはこの上なく楽しいことだったし、年月を重ねるごとに想像力と憧れの気持ちだけがふくらんでいく。

でも早く退院するからといって必ずしも満足だというわけじゃなかった。

あることが原因で、アキラは退院に消極的になっていた。



リンゴをかじっていると、部屋の戸が開いた。
長身でメガネをかけた、白衣姿の男がアキラに手を振る。
「やあ」
「先生!」
しぶしぶベッドに座っていたアキラの態度が一変する。ベッドから降りたので母親がそれをとがめた。
「こら!走っちゃだめよ」
「大丈夫ですよ、このくらいの距離なら。どう?アキラ、調子は」

そう言って先生は頭をなでてくれた。大きな手で軽々とアキラを持ち上げるとベッドに座らせる。
「さっきまで不機嫌だったのに、先生が来たとたんに喜んじゃって」

母親の顔は少しさびしそうだった。
無理もない、共働きであまり息子のお見舞いに来られないうえに、息子が自分ではなく主治医になついてしまっているのだから。

本来は人見知りが激しく内向的なアキラが誰か主治医を大好きなのは喜ばしいことなのだが。
それだけアキラの心を開かせるなにかを持っていたのだろう。


「よし、アキラ。ここに寝て、Tシャツめくってくれるかな」
「あ……はい」

ゆっくりシャツをめくると、先生は胸に聴診器を当てた。
先生のメガネごしの目は柔らかく、アキラの体をじっと見ている。

忙しいからか、髪の毛はぼさぼさだった。アキラは目が合うとパッと顔をそむけた。
さっきまでの勢いはとたんに消えうせてしまう。

心臓の音を聞いて聴診器を外すと、心配そうにしている母親のほうを向いた。
「どうですか?先生、うちの子は」
「術後の経過は良好のようですね……もうしばらく様子みて……」
「僕、まだ病院にいたい」

アキラは起き上がると先生の白衣のすそを握り締めた。
いままで医者=怖い存在だったのに、この先生だけは怖くなかったのだ。
「まあ。退院したくないの?」

母親はあきれたようにため息をついて、手を白衣の裾から離させた。
「だって……先生と会えなくなるもん」
そう。退院すればもう会うこともない。子供でもそのくらいのことはわかる。

先生は少し困った表情をしていた。苦笑いして母親と顔を見合わせる。
「友達と一緒にサッカーしたいそうなんです。そうよね?アキラ」
気を使って明るい話題を振ったのにアキラの表情は晴れない。

「お母さん、時間大丈夫なの?」
そう言われて母親は腕時計を見た。そろそろパートに戻る時間だ。

アキラが病気がちなため母親はなるべく看病に時間を割きたかったのだが、金銭的な余裕もないため毎日パートで働いていたのだ。
でもアキラは新しいこの主治医を信頼していたので、母親も安心して仕事ができた。



「じゃあ、お母さんそろそろお仕事に戻るわね」
母親はコートを羽織り、テーブルの上のものを片付けるとカバンを肩にかけて先生に頭をさげた。

その白衣の裾をアキラが握っているのまでは見えなかったようだ。

「すいません先生……またなにかあったら連絡してください」
「ええ、わかりました」
「それじゃあね、いい子にしてるのよ」
「はーい」

戸が閉まると、先生はため息をついてベッドに座った。アキラがごねたことが気になったらしい。
母親が心配している気持ちはアキラも感じていた。でも、それ以上に先生と離れたくないのも事実だ。先生はそんなこと思っていないのだろうか。体の調子がよくなっていくのも、先生がいたからなのに。

まだ小さいアキラには自分のことしか考えられなかった。

窓の外にうつっている青空を眺める先生の横顔は、悲しんでるように見えた。




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